デジタルアーカイブの資料基盤と開発技法

記録遺産学への視点

デジタルアーカイブ  オーシマ・スタジオの取り組み

今年(2016)4月にデジタルアーカイブの資料基盤と開発技法-記録遺産学への視点-なる専門書が、京都の学術図書出版の晃洋書房から出版されました。
京都の橘大学の教授でデジタル情報記録管理協会(一般社団法人)会長の谷口知司氏が当社のホームページをご覧になり、今までに写真を通じて実行したことを書いてください、とわざわざ広島に来られたのを契機に、なれない原稿書きに挑戦して、約1ヶ月を要してオーシマ・スタジオの事例として解説文と写真や図解でまとめ、谷口先生のお目通しを得て、当社のスタッフと、11章の21ページ分を受け持ちました。有名大学の教授の方々とデジタルアーカイブの著者の一角を得たことは、日頃の仕事に評価を得た思いで感謝です。

以下内容を列記します。

1)岡本太郎「明日の神話」実物大複製(幅30m)
2)厳島図屏風の複製
3)広島市亨保13年の巨大絵地図の実寸カラープリント作成
4)岡山大学大学院教授 泉谷淑夫画伯の大作「雲海」の実物大の陶板制作用データ作成
5)被曝70周年 広島復興大写真展(広島写真美術協会・広島市)の被曝後の平和公園と現在の平和公園の超大画面の比較展示写真の制作

デジタルアーカイブの資料基盤と開発技法 晃洋書房 TEL(075)312ー0788

本書では主に大型平面作品のデジタルアーカイブですが美術館などの立体作品の撮影も多くの実績があります。

(デジタル情報記録管理協会)上級デジタル情報記録技術者 大島邦夫

1)岡本太郎「明日の神話」の実物大複製

2006年に広島市立現代美術館で岡本太郎の「誇らかなメッセージ明日の神話」特別展で、巨大な平面作品の実物大の複製を依頼される。
「明日の神話」は原爆が炸裂する瞬間を描いた岡本太郎の超大作で、メキシコで制作されたが事情があって、30年位行方不明になっていた。
日本に持ち帰ったが相当に痛んでいて、四国で修復中だった。一般公開する前に実物大に複製して広島市立現代美術館で展示することになっている。幅30m高さ5,5mの巨大壁画は14枚に分かれていて、工場の壁面につり下げられ横に移動できるようになっているが、手で押したくらいではびくともしない。1枚が幅2,2m前後になっている。これをどう撮影し、どうプリントするか。分割撮りをしたデータをパソコンでつなぐことになるが、データ量も膨大になりよほど精度を上げなければ繋がらない。上下左右些かの誤差も許されない。プリント出力の幅は2,4mが可能で、実画は2,2m幅だから問題ない。パソコンの自動処理である程度はつなぐことができるが、微妙なずれが生じることがあるので、最後は黙視だ。材質はビニール系の屋外でも使用可能な強度を持つターポリンという素材を予定する。いかに大型プリンターでも一発刷り出しは不可能だ。分割撮りをしてデータをPCでつなぐことになるが、何分割で撮って合成の為の重なりはどのくらい必要か、当時最高とされた35mmフルサイズの国産カメラも1670万画素が出たばかり、これで何分割すればいいのか実際に部分撮影を行い刷り出して検証する必要がある。
35mm版カメラで横位置にして、縦移動しながら一枚の絵を4枚に分割撮影することにして、1ショットテスト撮影を行い、データを持ち帰り実物大の比率で出力し、色調と粒状性を検討する。1670万画素クラスのカメラでは、かなり物足りないが5〜10m離れて見ることになると判断して、暫定案とする。全体では56枚の合成になるのでデータ量と作業性を考えて許容範囲とする。
先ず、カメラを画面に平行に5,5m垂直移動させる装置を考案することが必要。自作できるようにホームセンターで2間(3,6m)の垂木等、木材と金具を購入して垂直柱を計画。簡単な図面を作り試行錯誤の上2〜3日かけてカメラが5m位垂直上下移動できる装置を手作りし、手動で滑らせて持ち上げたり下ろしたりできるように上部に滑車を取り付ける。4段階に縦に摺動移動させながら要所要所で任意に固定できるよう工夫する。スタジオ内で試作したが、天井が8mあるので問題はなかった。只、上の方に行くと3,5mの特大脚立のてっぺんに立っても手が届かず、落下防止の安全手すりを縛り付け脚立の上に箱を乗せて、手すりに背中をもたせてバランスをとり、サーカスのようなことをしてなんとか5mの高さに手が届き、作業が可能となる。一回だけの設備だから実用に耐えればよしとする。垂直はひもを垂らして微調整し、横移動は、現場で30メートルの絵の前をカメラのCCD面が絵に対して常にレンズの光軸が垂直水平とも90度を保ちながら上下左右に移動させる必要がある。横移動は大型の木の定規を作ったり、ロープをはったり、垂直は重りをつけてひもを垂らしたり、建屋との比較を睨んだり、勘と執念の勝負だった。
修復の時間に追われた現場に、割り込んでの撮影となったが、絵の上にかぶさっている修復用の足場は時間がないので、外すことはできないと言われ、足場込みで決行することになる。足場のあるところは立体となり56分割では繋がらない。できるだけ小刻みにカメラの移動を少なくしないと斜めの線が切れ切れになって繋がらない。しかし、カット数を増やすとデータ量が大きくなりすぎて接続のときにパソコンが作動しなくなる。最小限に押さえても、3倍くらいのカット数になった。それで接続の時間が大幅にかかり、仕上がりは絵の両端に足場が残ったままになった。
複製の展示はこの場限りで処分となるが、本物は永久展示となり,現在東京の渋谷駅の通路に展示され毎日30万人の目に触れていると聞く。
照明はカメラ位置が変わっても常に均一になるように左右からストロボを設置する。片側で4灯、左右で8灯露出計で確認する。そしてカメラと平行して移動する。通常一枚の平面作品の撮影なら、その作品に対して均一に照明することでいいが、幅30m高さ5,5mもあれば全面を一発で照明することも一発で撮影することも不可能だ。前述のごとくカメラを移動しながら部分撮りを繰り返し、照明も一定に調整し移動しても変化しないように工夫する。その為にはストロボメーターを使用して入射光で綿密に測定し、反射角もできるだけ一定になるようにすることが大切。頑丈でキャスターで移動できる鉄柱を立てて、垂木を二重にして強度を持たせた5mの自作スタンドを作る。これに4灯のストロボの発光部を取り付け3000ワットの電源部を接続し2セット作る。これをカメラの両サイドから反射角を考えながらセッティングした。

2)厳島図屏風の複製

県立広島大学宮島学センターより宮島の歴史研究の為、8曲の厳島図屏風の複製を依頼される。分割撮影で精密なデータを作り、原寸大のカラープリントを作るのが目的。江戸後期の戦国時代の重厚な屏風は、宮島の歴史や当時の人々の生活まで緻密に描き込まれ、参道や点在する岩山、木々の様子まで実にリアルに描いている。人と鹿との戯れも服装の違いはあっても、なれ合いは今も変わらない。名所や旧跡も鳥瞰で実に細かく描き込まれていて驚くほど。しかし、劣化も進んでいて扱いには慎重を要する。よほど精度を上げて撮影しなければ再現は難しい。特に筆の細い金文字は間近でも見えにくい。カメラを近づけ光の反射に注意しなければ金文字は飛んで見えなくなる。本堂での撮影を希望されるが、暗いし畳の上では機材が重くカメラも安定しない。観光客も多く、本堂の保全からも美術品専門の運輸会社に依頼し、スタジオに移動してもらうことで了解を得る。

撮影方法
8曲の一曲分を5カットで上下に移動しながら撮影し現像後、1カットが約60MBのカメラで撮影すると計算上は300MBになるが合成の重ね代を引いたら228MBになった。従って高さ約170センチ幅63センチの一曲分の実データが228MBなら解像度は200DPI。大型プリントは通常150DPIならOKなので、これで実行する。上下移動は大型カンボの1脚スタンドを使用し正確に5分割し、横移動は余裕をみて7m以上必要なので、屏風を乗せて垂直に立て、横移動できる装置を考える。要するに屏風を横に引きずる訳にはゆかないので、一定方向の滑車付き木製台を作り、垂直の壁を立て8曲の屏風を台上の壁面に固定する。美術品扱いの専門業者と一緒に慎重に行う。
一曲をカメラを縦に移動し5分割として8×5=40カットで計画。合成の為の重なりを20〜30パーセント位広く撮るようにする。一曲分撮影したらすぐパソコンに取り込んで繋がるか確認が必要だ。繋がったら現物と合致しているか同時に慎重に確認する。横の重なりも予測して余裕を撮っておく。8曲の横のつなぎ目が重なるように撮っておけば接続は後の作業としてもよいが。現場のテストで十分に確認しておくことが大切となる。こうして縦横ともに包含するように撮影を繰り返す。今回は一面ずつの精密な複製写真を得るのが目的で、横の連結はしない。大型のカラープリントに出力して納品となる。特筆すべきは、金文字の再現が難しく、一番問題だったが、パソコン上で金文字だけ選択して、黒に色変換することによって、実物からも読み取りにくかった絵の中の金文字がはっきりと浮かび上がり宮島学の先生方に喜んでいただいたこと。デジタルならではの効果だった。
そして、貴重な歴史的文化財を記録保存する作業であるから、文化財や美術作品の安全を第一に考え行動することが大切。

3)広島市亨保13年の巨大絵地図の実寸カラープリント作成

広島市所有の京保13年(1728年)作成の369センチ×224センチの丈夫な和紙をつなぎ合わせた手書きの地図は七つの川が流れ周辺は山が描かれ、広い紙面の中央部にわずかな家並みの区画があり、半分より海側は区画線はあるものの田圃か街の区画線かよくわからない。300年近く昔の絵地図だが、これが広島かと驚くほど街の開発スピードに驚く。広島市の職員と広島市郷土資料館の学芸員と美術専門運送業者によって筒状に巻かれた状態でスタジオに持ち込まれた。2000万画素クラスのカメラで50分割での撮影を計画し長手方向へ10分割、短い方を5分割で全体では50分割となる。

撮影方法
壁面につり下げることはできないので、床に12ミリのコンパネを敷き詰め自由な角度で移動できるキャスターをコンパネ一枚に6個ずつ取り付け、前後左右に自由にうごかせるようにして、その上にスタジオ用のバックペーパーを敷き、絵地図を4〜5人掛かりで慎重にゆっくりと声を掛け合って巻きをほどいて広げてゆく。カメラを空中に支持する為、建築用の角柱2×4の3mの角柱を数本用意して写真のような大形ブームを作り先端にカメラを取り付け高さの調節ができるように加工し、カメラを水平にセットする。ワンカットのサイズを決めてカメラの高さを決め台にレールをあてがって移動寸法を計り、手で台を押して合わせて撮影を繰り返す。照明はストロボにパラソルを付けて撮影部分を均一に照明し後で接続したときに濃度差が絶対に出ないようにしておく。接続の為の重なり代を適切にとっておく。全部撮影し終わったら簡単でもその場で接続して確認しておくことが大切。後で繋がらなかったら再撮は難しいと認識すること。

4)岡山大学大学院教授 泉谷淑夫画伯の大作「雲海」の実物大の陶板制作用データ作成

岡山県総社市の自然が残る閑静な住宅団地の一角に、泉谷画伯のアトリエはあった。真新しい吹き抜けの空間に大型のキャンバスがかけられていて、何とも不思議な絵である。モコモコとした羊の群れが飛び跳ねるようにして切り立った岩壁の間を、大輪のひまわりめがけて駆け抜けている羊の群れは元気な子供達のようだ。空にはカモメが二羽雲間に飛んで、おとぎの国の物語を思わせる。
この大作を陶板に焼き付ける為のデジタルデータを作るのが今回の目的。大型陶板制作の技術陣(大塚オーミ陶業(株))も合流。作者より説明を受けて作業に入る。

撮影方法
先ずアトリエのカーペットに養生シートを敷いて、持ち込んだ自作のアルミ角パイプの平面分割撮影装置を、絵の前にセットする。垂直水平、絵からの距離を正確に一定にし、約160センチ角の絵をカバーするように設定する。
天井の張りをかわし照明もストロボ4灯にパラソルをつけ光を拡散させて絵の表面の照度を均一に、誤差を左右中心共10分の1以下にストロボメーターの入射光で綿密に調整する。カメラ位置が変わっても常に平均になるよう注意する。その為にはストロボはできるだけ離した方が光が均一になりやすい。今回のように天井の張りや何かの障害物がある場合はテスト発光を繰り返し、根気よく調整を怠らないのが好結果をもたらす。カメラの引きの問題もあるがレンズは長玉のほうがおすすめ。単眼の100ミリ前後のマクロレンズが理想的。ズームレンズのときは周辺までピントの確認を注意する。
仕上がった大型陶板画は岡山大学教育学部付属幼稚園の130周年記念として同園内に永久展示されて園児達に毎日親しまれている。

5)被曝70周年 広島復興大写真展(広島写真美術協会・広島市)の被曝後の平和公園と現在の平和公園の超大画面の比較展示写真の制作

2015年5月に被曝建物である旧日本銀行広島支店に於いて、広島写真美術協会と広島市の共催で、「被爆70周年 広島復興大写真展 広島の底力」を開催した。メインは幅7mの巨大写真である。ひろしまフラワーフェスティバルで若い女性が青空の下で元気いっぱいに両手を広げ平和大通りを行進している写真と、アメリカの若い女性が数人制服を着て慰霊碑に献花している姿を並べて展示、広島の復興発展した市中心部の航空写真を幅4mに拡大して2枚、市民球場でカープの応援風景、広島ビッグアーチでサンフレッチェの応援風景、そして被曝直後の焼け野原の平和公園と今の緑豊かな平和公園を上下に並べて5.4mに拡大して展示した。その下に復興途上のA2サイズの写真を50枚、現在の復興発展した様子を撮影したA1〜A2サイズの写真を240枚展示した。
7〜8000人の入場者が詰めかけたが一番注目を集めたのは被爆直後の焼け野原の平和公園と70年後の今の緑豊かな平和公園を比較した5.4mの大画面だった。焼け野原の写真に写るガレキの中の細い道を指差して、「ここを毎日歩いて学校に通ったんですよ!ほんと、ここ」と背伸びして指差しているご婦人がいた。聞けば昭和12(1937)年生まれで、今は77歳だと言う。しっかりした彼女の声は大きくなり興奮気味であった。周囲は親戚が寄り集まったようににぎやかになった。古い記録写真の中に、人の温もりが広がってゆくのがよく分かった。
テレビ・新聞7社の取材、広島市長も来場された。被爆後の写真は広島平和資料館所蔵で、林重夫(故人)の撮影、現在の平和公園は大島邦夫が近隣のビルの屋上から13枚撮影して接続した。この2枚の写真は核保有国のインドに寄贈し、学校に展示され、国際交流と世界平和に役立っている。これらの大画面写真は2〜8枚合成し濃度色調調整と解像度の計算を念頭におきながらの制作となった。